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紙の月(ネタバレ)

 

紙の月

紙の月

 

 

監督 吉田大八
脚本 早船歌江子
原作 角田光代『紙の月』

 

映画「紙の月」で宮沢りえが演じる梅澤梨花の周囲には彼女が転落する原因がいくつもあったのだが、突き詰めて考えた時行き当たるのは「罪悪感の欠如」という致命的な欠陥である。

たとえ金銭を盗んでも、不倫をしても、お年寄りを騙しても、上司の弱みにつけこんでも、優しい夫に冷たくしても、梨花が罪悪感を抱く描写は無く、それどころか罪を重ねるうちに何処か浮世離れした雰囲気のつきまとう女性へと変貌していた。


横領した金銭を湯水のように使う生活はいつか終わるものであると、偽物の幸福であると彼女は理解できていた。
それくらい理解できる程度には、又は言葉巧みに人へ付け入られるくらいには頭の回転が良かったのだ。
しかしそれでも、梅澤梨花が罪の意識を感じる事は無かった。

 

これを反芻してくうちに、映画「黒い家」で保険金殺人を繰り返す女性が「私も金の為に親に同じ事をされた、何が悪い」と言うシーンを思い出した。
同じく金銭を騙し取る女性でも清濁の描写・愛の有無は対象的で、しかし罪悪感の無さは等しい。
面白いのはより悪辣に描かれた「黒い家」の菰田幸子の方が、悪事を働くに至る傷を分かりやすく親から受けており、「紙の月」の梅澤梨花は曖昧だったというところである。

 

罪悪感を抱かないという事は、彼女の規範意識に「誰かの為だからといってお金を盗んで良い事にはならない」という一文が無いのだろう。
あるいは幼少期の体験を苦い記憶とする程には親に叱られなかった、学校の先生も動機が寄付である事・彼女が真面目で優しいからこそ強く罰しはしなかったのかもしれない。

 

人は痛みを感じなければ学ばない。
その人の為にならない優しさはまやかしの幸福を生むけれど、同時に首を絞めていく。そんな想像をした。

凶悪(ネタバレ)

 

凶悪

凶悪

 

 

「凶悪」

監督 白石和彌

脚本 高橋泉

原作 新潮45編集部編『凶悪 -ある死刑囚の告発-』

 

 

世の中には色々と後回しにしたい事がある。夏休みの宿題だとか、面倒な手続きだとか、明日また考えればいいやと自分自身に言い訳をする。
山田孝之扮する藤井はといえば、認知症の母を老人ホームに入れようと妻にせっつかれるも、罪悪感からどうにも腰が重かった。
おそらく本編以前から、母と嫁に挟まれながら「今は仕事が忙しいから」「考えたい事があるから」と先延ばしにしていたのだろう。「もう限界だ」と泣く妻からも病で時折我を見失う実母からも目を背け続けていた。

そこにやってきた元暴力団組長の告白は、彼にとって恰好の逃げ場だったのだと思う。
隠匿され続けていたという冷酷無比な所業に「この非道を白日のもとにさらさなくてはならない」とまるで正義に燃えているかのような台詞をのたまうが、その根底にあるのは前述したような逃避であり、劇中妻が言うようにその世界を覗き見ることは「面白く」、悪鬼羅刹と言うべき輩を追い詰めて死刑台へ送る事で「すっきりしたかった」のではないか。

 

先生の最後の台詞は便宜上藤井に対するものだが、おそらく観客へも向けられている。コツコツとノックするのは面会室のガラスであり観客の見るスクリーン(又はテレビ画面)でもあると想像する。
なぜなら今作の悪逆無道な振る舞いを消費したのは藤井や藤井の記事を読んだ者達だけではない。不快や嫌悪・あるいはクリスマス会等での落差に僅かでも面白みを感じたのなら、彼らと同じ穴の狢なのだ。

そして指摘されている行いはこの作品に限った話ではない。

「当事者よりも正義の執行を望む赤の他人は一体何の為に声を荒らげるのか?」

彼はおそらく、藤井が純然たる正義に突き動かされているわけではない事に気付いている。

 

歪な正義を振りかざす大衆・安全な場所から正義の味方面をする第三者達への苦言は世の中に溢れている。
けれど、先生はその行為自体を糾弾はしていない。
ただ「お綺麗なつもりでいるな、お前も正しさだけで出来てはいないだろう」と言っているように思う。

そして己を取り巻く問題から目を背け、「正義を行う」ことでストレス発散をするような行いをした観客(藤井)へ言外に言っている。
「だから悪(須藤)に利用されたのだ」と